江戸時代の武士はブラック勤務?意外と知られてない武士の働き方や仕事内容について

江戸時代の武士はブラック勤務?意外と知られてない武士の働き方や仕事内容について

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天下泰平の世と言われた江戸時代、ほとんど戦(いくさ)の無い平和な世の中において武士たちはどのような仕事をしていたのだろうか?

日本史の教科書で、江戸時代に起きた歴史的な出来事や人物について学んだとしても、その時代に生きていた武士の多くが実際にどのようなライフワークを送っていたのかまでは、意外と知らないことでしょう。

「武士という仕事はブラックだったのでは?」と現代人の価値観を引き合いにネガティブなイメージを持たれている方は多いのではないでしょうか。

そこで、本記事では江戸時代の武士の仕事内容や働き方の実態についてご紹介していきたいと思います。

幕臣(江戸在住)の仕事と働き方

まずは、「幕臣(ばくしん)」と呼ばれる人々の仕事内容と働き方からご紹介します。

幕臣とは、江戸幕府の長かつ武家の棟梁である征夷大将軍を直接の主君として仕える武士のこと。江戸時代においては征夷大将軍の職に就いた徳川家の家臣であり、1万石未満の禄(給与)を与えられた「旗本」あるいは「御家人」、「直参」と呼ばれる身分の武士を指します。

幕府の役人でもあったそんな幕臣たちは、毎日どのようなライフワークを行っていたのでしょうか。

意外とヒマだった幕臣たち

幕臣たちは、現代に生きるサラリーマンのように毎日時間に追われて、夜遅くまで残業するといった忙しさはありませんでした。要するに、意外とヒマを持て余していたようです。

限られた仕事・業務の量に対して、幕臣の数があまりに多すぎたというのがヒマであった要因と言われています。

俗に「旗本八万騎」と呼ばれるように8万人、あるいは実数はそれ以上の数の幕臣がいたとも言われています。

​​幕府には多くの役職があり、「若年寄」「大目付」「側用人」「〇〇奉行」「〇〇奉行並」など、末端にいたるまでピラミッド式に組織が構成されていました。仕事内容は、将軍の身の回りの世話から、政務・軍務に至るまでさまざまでした。

組織構造は、現代の会社における「役員」「部長」「課長」「課長代理」「秘書」といった役職のとさほど変わりはありません。

勤務形態に関しては、すべての幕臣が毎日登城したわけではなく、登城するのは月に3〜6日程度(役職によって日数は異なる)でした。

それぞれの役目に沿った業務や評定などの打ち合わせなどの際に登城するだけで、その他は「役宅」といって、主に自宅で事務処理の仕事をしていたようです。

出社勤務と在宅勤務を織り交ぜた、現代のいわゆる「ハイブリッドワーク」の走りとも言えます。

平時において、登城できるような上級の幕臣は、ちゃんと役目を与えられた一方で、御家人やそれ以下の徒士と呼ばれる身分の下級の幕臣は、働きたくても特に役人としての仕事はなくヒマでした。

また、役目を与えられた上級武士も仕事ばかりをしていた訳ではなく、平時は主に幕府が設置した昌平坂学問所や講武所、私塾での学問・武芸の鍛錬、そして釣りや芝居見物などの趣味にも多くの時間をあてていたようです。

下級の幕臣は内職(副業)を行っていた

下級の幕臣たちは、ペリー来航による沿岸警備などの有事、特に人手を必要とする際に主に大量動員されました。

そのため、平時においては下級の旗本や御家人のほとんどは、ヒマな時間を活用して内職などの副業を行いながら生活費を稼いでいたようです。

副業を行っていたとは言え、武士の世界においては面目を保つこと、プライド(誇り)がすべてです。商人のようにお金を儲けるために何でもやるが目的ではなく、私塾を開いて塾生から授業料を集めたりと、あくまでも武士の一分を保ちながらの副業が多かった言われています。

自身の屋敷の一部を町人に貸すことで、賃料を副収入として得ている幕臣も数多くいました。

一方で、借金を抱えているなど本当に生活に困窮しているような武士は仕事を選んでいる余裕はなく、時代劇など傘張りの内職をしているシーンを見かけるように、実際にそのようなことも内職のひとつとして行っていたようです。

他にも、花や植木、鈴虫や小鳥なども内職でを育てて売って生計を立てていた武士もいました。

「江戸時代は士農工商で身分・職業が厳格に分けられていた」と教科書で学んだ方は多いと思いますが、実際には武士であっても生活のために、さまざまな商売・生業を行っていたという意外な真実もあります。

諸藩士の仕事と働き方

藩士(はんし)は、 藩に所属する武士のことで、江戸時代の諸藩の藩主の下で働く家臣や藩臣のことです。

藩の重職を担うのが年寄・家老と言った役職で、一般的に藩主の一族か、譜代の重臣がこれにあたります。これらを主に「重役」と言います。また、藩の役職は大きく「番方」「役方」「奥」と3つに別れています。

江戸時代は軍事政権であり、幕府も諸藩も軍事的な権力構造を基にしていました。その最たるは軍務にかかわる役職で、これを「番方」と言います。

番方は藩の常備軍として殿中・城門の守衛、城番、主君が出行する時の供奉などを職務としました。

一方で、経理など平時の藩の運営に関わる文官的な役目を「役方」と言います。 役方は吏官として藩の政務・事務あるいは典礼の遂行などを職務としたようです。

さらに「奥」と呼ばれる藩主の身の回りの生活を支える役目は、言わば藩主のすぐ側に四六時中付き添う秘書的な仕事であるため、最も忙しい役目と言っても過言ではありません。

江戸勤務(勤番武士)の多くは寮生活

ご存じの通り、江戸時代には「参勤交代」と呼ばれる制度があり、当時の江戸市中には各藩の屋敷(藩邸)が存在しました。

こういった各藩邸には、参勤交代に随行して地方から上京し、そのまま藩邸に残った「勤番武士」と呼ばれる藩士が数多くいて、藩邸内の「勤番長屋(きんばんながや)」という場所で共同生活していました。

現代で言うなれば、地方企業が東京にオフィスを設けて、上京した社員が寮で集団生活を行うといった感じと言えます。

部屋には階級があり、身分によって割り当てられていました。上級藩士であれば一人一部屋でしたが、身分の低い下級藩士は、相部屋・大部屋が基本だったようです。

一方で、長期間にわたって江戸の藩邸に勤務する一部の上級藩士は、「定府(じょうふ)」といって、妻子など家族も一緒に江戸市中に別途で邸宅を設けて暮らしていました。

定府に関しては、各藩の出身ではなく、江戸で生まれてた代々江戸藩邸で勤めている家系か、あるいは浪人を江戸で採用したといったケースもあったようです。

例えば、忠臣蔵で有名な赤穂藩浅野家の家臣である「堀部武庸 (堀部安兵衛)」は、新発田藩の出身で、浪人を経て赤穂藩の堀部家に婿養子として入りました。以後はずっと江戸暮らしだったようです。

在郷の藩士は出自も多様

諸藩によって違いますが、在藩の武士の役目や生活レベル、出自に至るまで実態はさまざまだったようです。

東北の平侍を描いた藤沢周平氏が原作の映画「たそがれ清兵衛」では、実に武士のライフワークがリアルに描かれています。

物語の主人公である井口清兵衛は、藩の蔵(財政)を司る御蔵役という事務仕事を与えられていました。

井口家の禄高(給料)は五十石取りと武士としてはそこそこの収入はあったのですが、手取りにすれば30石で、そこから借金の返済や医者代・薬代などを差し引くと手元に残るのはわずかでした。そのため、仕事が終わると同僚の誘いを断って虫かご作りの内職に勤しみ家計を守っていました。

つまり、武士は特権階級だからと言って必ずしも裕福な暮らしをしていたとは限りません。

そもそも諸藩によって士分と庶民の境界線は曖昧でした。特に江戸時代の中期から後期にかけてはその傾向が顕著で、武士の身分も株として売り買いができました。要するに血筋に限らず、お金さえあれば誰でも武士になれたようです。

有名な事例をあげると、土佐藩の坂本龍馬がまさに当てはまります。坂本家は、もともとは才谷屋という土佐の富商で、郷士株を取得して武士の身分を手に入れた家系です。

武士の身分を手に入れたとは言え、土佐藩全体の中で見ると、下級武士ではありましたが、元が豪商であったため、生活はかなり裕福でした。

また、同じ土佐藩の中でも坂本家とは反対に、三菱の創業者である岩崎弥太郎は、貧しさのあまり郷士株を売った「地下浪人」の家系だったというのは有名な話です。

まとめ

本記事では江戸時代の武士の仕事内容や働き方の実態についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

実際には、「武士」一括りには語るのは難しく、各藩によって制度は異なり、働き方や暮らし方も違ったようです。これは現代の価値観に置き換えてみても、各企業によって違うのと同じことが言えます。

さらに言えば、武士といっても各々によって収入は異なり、暮らしぶりも大きく違っていました。

江戸時代に生きた武士の働き方は、ブラックどころか意外と自由で、羨ましいと思った方もおられるのでは?

とは言っても、武士の社会は意外とゆるい部分が多い反面で、品位や面目が最も重視されます。もし仮に何か失敗を犯せば、切腹といった形で死を以って責任を取らなければならないリスクもあります。

現代と比べてそこまで社会福祉も充実しておらず、思い通りには行かず生き辛い部分があったことも否めないことでしょう。ただ、それはいつの時代も変わらないのかもしれません。

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